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【雑誌くるとんからPick up!】くるとんVol.50

正直ものの正直豆腐/山本食品

 

柳井市日積 山本食品 豆腐工場

深夜から始まる作業

時刻は早朝5時。
柳井市日積の田園地帯に建つ一軒の工場から、シューッ、シューッ、と蒸気が吹き上がる音が聞こえてくる。工場の中は、まとわり付くような湿気と大豆の匂いで満たされている。ここは、昭和28年創業「やまちゃん豆腐」のネーミングで長年親しまれている有限会社山本食品の製造工場である。
工場の中でキビキビとした動きで作業を切り盛りするのは、二代目社長の山本征彦さん(78)。先代の父から会社を引き継いで今年でちょうど50年になる。
山本さんは毎日深夜2時前には工場に入り、朝の6時までノンストップで豆腐を作り続ける。作り終えた豆腐は次から次へと配送用のトラックに積み込まれ、出荷される。
出荷を見送った後、山本さんは油揚げなどを作り、やっと一段落つけるのはお昼過ぎ。その間、山本さんはコーヒーを数杯飲む程度で、驚くべきことに食べ物は何も口にしない。
「50年間ずっーとこんな感じじゃあ」。苦笑いしながら、そう教えてくれた。
その日初めての食事をとるのは午後2時頃で、メニューはいつも同じ。白いご飯に豆腐と花鰹をのせて、サッとお醤油を掛けて掻き込む。短い休憩時間に、唯一の趣味である新聞を隅から隅まで見る。
「なんでそんなに頑張れるんですか?」。失礼な質問にもこう答えてくれた。
「わしゃ、子供の頃から苦労してるからのう。」

生後すぐの悲劇

山本さんは昭和14年、岩国市で洋服の仕立て屋を営む父、一さんと、母、スミ子さんの元に長男として生まれた。
ところが産後の肥立ちが悪く、同年9月に母スミ子さんが亡くなる。戦時中に父親一人で乳飲み子を育てるのは難しく、山本さんは親戚のいる上関町室津(当時は室津村)に預けられて幼少期を過ごすこととなる。毎日が魚釣りの海の子として征彦少年はすくすくと育った。

再び父と暮らす

転機が訪れたのは山本さんが10歳になる頃だった。戦後の混乱期を経て、ふるさと柳井市日積(当時は日積村)に戻ってきた父、一さんが、室津に住む征彦少年を呼び寄せたのだ。父はその後再婚して子供もいたため、征彦少年にとっては突然の弟と妹の誕生だった。
山本家は仕立て屋を再開したものの、時代は既成品の洋服が次々と入ってくる時代。商売は大変だった。長男である征彦少年はまだ小学生の頃、片道15キロはある柳井の中心街までボタンやハギレを歩いて買いに行かされることもあった。
とにかく貧しかったのだ。
小学校中学校はまともに通えず、ひたすらに家の手伝いをする毎日だった。

山本食品創業

親戚の勧めで父が、仕立て屋から豆腐屋へ職業替えを決意したのは昭和28年、山本少年が13歳の頃だった。山本食品の長い歴史のスタートである。
これで少しは生活も楽になるかと期待したのは最初のうちだけで、水汲みに薪の買い出し、作った豆腐を近隣へ売り歩く仕事はすべて征彦少年がこなした。
「大変なんてもんじゃあなかった」。遠くを見つめて山本さんは振り返る。
中学を出て家業の手伝いを続けていた山本さんだが、過酷すぎる仕事から何度も逃げ出したという。売り上げを持ってサンライト(原動機付きの自転車)で夜中じゅう走り続け、下関の方まで逃げたこともあった。なにくそという気持ちだった。

神戸で魚屋になる

そんな山本さんを見かねて助け舟を出してくれたのは、10歳まで育ててくれた室津の親戚だった。神戸にある魚屋への就職を斡旋してくれたのだ。山本さんは21歳になっていた。
初めての都会暮らし、初めての休日。仕事は決して楽ではなかったが、今までに比べれば夢のような生活だった。休みの日には何をしていいかわからなかったが、次第に慣れて小林旭の映画を見たりキャバレーに行ったりもした。
神戸での生活も3年を過ぎた頃、実家に残した弟や妹のことが気になり始めた。
「元気にしているか?」。
手紙を書き、当時まだ珍しかった白黒テレビを実家に送った。
逃げ出したくてしょうがなかった実家への思いは日に日に強くなっていた矢先に、父が亡くなった。
心は決まっていた。

柳井市日積 田園地帯

二代目として

昭和42年、山本さんは父に代わって豆腐屋を継ぐため、柳井市日積に戻ってきた。
しばらくして、山本さんは5歳年下の久美子さんとお見合いがきっかけで結婚。2男1女の子宝にも恵まれ、念願のマイホームも建てた。
文字通り一家の大黒柱となった山本さんは、がむしゃらに働いた。久美子さんも家業の手伝いに、家事に子育てにと奮闘する毎日だった。家族サービスらしいことはほとんどできなかったが、たった一度きりの家族旅行は山本さんにとって忘れられない思い出だ。
ある年のお正月、ふと思い立って宿も取らずに徳山発の船に乗った。行き先もわからずに乗った船がたどり着いたのは、大分県の別府。現地で宿をとり、たった一泊だったが忙しい日常を忘れる一家団欒の温泉旅行になった。

不慮の事故

駆け抜けた昭和という時代が終わり、経営も順調だった頃の突然の事故だった。平成元年、当時中学生だった次男の考之さんが、トップカーの事故で視力を失う大怪我をしてしまったのだ。入院治療は半年間にも及んだが視力は戻らず、下関の全寮制の盲学校へ転校を余儀なくされた。仕事の忙しかった山本さんは、それでも月に何度か考之さんに会うために下関を往復した。
「ねむうてねむうてしょうがなかった」。
下関から帰る頃には体力はもはや限界で、何度も襲ってくる睡魔に打ち勝つために軽トラックにはいつも氷を積んだ。眠くなったら氷を顔に当てて眠気を覚ますのだ。

厳しい時代

そんな不運な出来事があった春、長男の佳宏さんは高校を卒業。卒業と同時に家業を手伝うことになった。
厳しい豆腐屋家業を目の当たりにしてきた長男の決断を、山本さんは口に出しては言わないが嬉しかった。
家族の協力もあり、一時は従業員が10名を数えるほどに事業は拡大。得意先は県外の広島にも抱えるほどで、売上は多いときで一億円に届く勢いだった。しかし、その後にバブル崩壊、豆腐屋には厳しい時代が待っていた。
過疎化による人口減少、スーパーマーケットの値下げ圧力、激安豆腐の進出などが原因だ。新しく大型店が開店する際には、挨拶代わりに無償で豆腐を卸すのが慣例だった。営業を兼ねて新品の冷蔵庫をプレゼントしたこともあった。
激しい生き残り競争で、気づけば市内に10軒以上あった豆腐屋は3軒に減っていた。

悲しい別れ

耳を疑いたくなる知らせは突然届いた。妻、久美子さんにガンが見つかったのだ。
売上が落ちる中で、なんとか従業員を食わしていかなければならない山本さんは、経営者として、そして職人として常に先頭に立って働いている頃だった。
激務の中、毎日病院に妻を見舞ったが、平成15年帰らぬ人となった。悲しみに暮れながら、それでも山本さんは豆腐を作り続けた。

学校給食

その後、山本さんは経営判断で事業を少しずつ縮小していく。そんな中で得意先として注力していったのは学校給食だ。現在では、地元保育園や柳井市内、平生町、周防大島など数多くの学校給食用に豆腐や油揚げを届けている。
近隣のスーパーマーケットではいろいろな豆腐を見かけるが、なぜ学校給食では山本さんの豆腐が多く選ばれているのか。それは創業64年の信頼だろう。
その昔、行商で豆腐を売り歩く時代は、消費者の意見を直接聞けた。「昨日の豆腐は柔かったね」と言われることは、「大豆をけちったんでしょ」と言われていることを意味した。
固いからうまいわけじゃないんだが、と前置きしながらも、山本さんの作る木綿豆腐は昔ながらの豆乳が多く入った固い豆腐だ。
正直に作り続けている信頼のやまちゃんブランドが、安心安全が最優先の学校給食で多く選ばれているのも納得できる。

柳井市日積 山本食品 正直豆腐

「美味しかった」がやりがい

今でもたまにお客さんから直接「美味しかった」と感想をいただくことがある。この時ばかりは山本さんの表情は和らぐ。どんなに辛くても、この瞬間があるから豆腐屋をやめられないのだと山本さんは話す。

いつか孫と

山本さんには、現在3人のお孫さんがいる。
長女靖子さんの長男は今年高校2年生で、たまに靖子さんから学校の送り迎えを頼まれることがある。山本さんはお孫さんに会うと、必ず言うことがある。
「早くお母さんを楽にしてやれ」。苦労してきた山本さんの言葉は重い。
最後に山本さんに将来の夢を聞いてみた。
「室津で孫たちと魚釣りでもしてみたいんじゃがのう」。
戦前戦後に幼少期を過ごした思い出の海、室津。かつての海の子は、いつまでも変わらぬ穏やかな海を見て、何を思うのだろうか。

 

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