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【雑誌くるとんからPick up!】くるとんVol.48

小さな鮮魚店繁盛記/魚庄鮮魚店

都会の飯は合わん

岩国市の由宇総合支所の斜め向かいにある魚庄鮮魚店は、創業昭和20年代の後半あたり。「さてー、いつなんじゃろう、わしが10歳くらいの頃に、おふくろがはじめたんじゃけー」と店主の重本福次さん(72)。妻の康子さん(65)を交えて昔話を聞いているうちに、本当はお母さんが作った店ではないことが判明するのだが・・・、それは後で語ることにしよう。
福次さんが小学4年くらいの頃、学校から戻ると母が働く魚屋に行った。当時の店は現在の場所より150mほど西にあり、旧・由宇町役場も昭和43年(1968)までそこにあった。その後、役場が現在地に引っ越すのと同時に、店も移転している。
「店の隣に饅頭屋があって、おふくろが内緒で買ってくれて、それが楽しみでね」。福次さんは10人兄弟の末っ子。母が46歳のときの子である。父は農業をしながら、 一家の収入を一手に管理する。7人の兄たちは祖父から伝わる3隻の船で漁をしていた。聞けば祖父は無類の釣り好きで、それが高じて先祖からの田畑を売り払って船を買い鯛漁の網元になったのだとか。その血を引いたからか、福次さんも大の釣り好きに育った。
福次さんは高校に進学したが「勉強がおもしろうない」とかで、3ヶ月でやめると、親戚を頼って東京へ。ところが3日で舞い戻っている。「東京の飯は口にあわんかった」。農家で育った人に都会のご飯が福次さんは高校に進学したが「勉強がおもしろうない」とかで、3ヶ月でやめると、親戚を頼って東京へ。ところが3日で舞い戻っている。「東京の飯は口にあわんかった」。農家で育った人に都会のご飯が合うはずもない。他に選択肢はなく、15歳で母の店を手伝うように。

魚の専用貨車

日も明けぬ5時くらいから漁師が獲った魚を 一斗缶より深い専用の「カンカン」に詰めて預かる。「紐がついとって、それが肩に食い込む」。たくさんのカンカンを由宇駅へリヤカーで運んだ。そして6時15分、蒸気機関車に魚と一緒に乗り込むと廿日市駅へ。
汽車は通勤客を乗せる普通列車だが、最後尾に鮮魚用の貨車が連結され、沿線の魚を集めて運ぶ。人が乗れないほど貨車は魚でいっぱい。福次さんと母は客車に座るのだが、大竹駅からは通勤客で混むから、二人は仕方なく魚まみれの貨車へ。
こうして廿日市駅に着くと、迎えの三輪トラックにカンカンを急ぎ詰み込み、既に還暦の母は助手席に座り、福次さんは魚と一緒に荷台へへばりついて、いざ市場へ。市場では買い子(仲買人)たちが二番セリはまだかと待ち構えている。
魚庄鮮魚店は漁師から魚を預かり運ぶ荷主であり、セリで魚を買い付ける買い子でもある。現在、広島魚市場でセリができる業者は、岩国市でも数件ほど、由宇では重本さんだけなのだとか。福次さんと母はたくさんの魚を買い付け、やはり汽車で由宇駅に戻ると昼前の11時15分。店までリアカーで運び店頭に並べた。
福次さんが22歳でトラックを買うまでの7年間、蒸気機関車はディーゼル車に変わりながらも、魚まみれの市場通いは続いた。漁獲高が落ち込んだ現在では、信じられない話である。

忙しさと喜びと悲しみと

「買って帰った魚はみな売れた」。年末ともなると日積、伊陸、祖生からも買い物客でごったがえす。客は若い福次さんを「福ちゃん、ちょっとおいで」と呼ぶと、色々な用事を頼み、器用で仕事のはやい福ちゃんはそれに応えた。それは「わしゃあ、人気者じゃった」と自慢するほど。そして、昭和46(1971)年、28歳の福次さんのもとへ20歳の康子さんが嫁いできた。
「そりゃあもう、忙しかった」と康子さん。長女が生まれ、役場の移転を追いかけて店も移転し、仕出し業も始め、そして長男も生まれた。「娘が言うんです。お母さんに、どこどこに行ってくるって言いたいけど、声もかけられんかったって」。
地域にスーパーマーケットが進出し、昔ほど鮮魚が売れない時代になろうとしていたが、康子さんは店と子育てに忙しくも充実した毎日。そして、38歳のとき、3人目となる次男・健二さんを出産すると、またまた忙しく…。しかしその2年後、思いがけない事故が、重本家を襲った。
当時19歳だった長男が突然、交通事故で亡くなったのだ。

コツコツと

康子さんは商売について、こんなことを何度も語ってくれた。「商売には波があると思います。忙しくて調子がいいときがあっても、ええことは長くは続きません。すぐ落ちる。でも、お客さんに喜んでもらおうと、コツコツやりよったら、またいい波がくる」。
これは人生から学んだ教訓ではないだろうか。福次さんも康子さんも、とにかく明るい。その明るさに導かれるようにして、また客はやってくる。人生にもいい波がやってくる。
6年前、息子の健二さんが店を手伝い始めた。福次さんと一緒に市場へ出かけてイロハを学ぶと、半年後には仕入れを任された。「良い魚でも高すぎると買えないし、その加減が難しくて、なんでも買ってみたりして、最初は赤字になりました」と健二さん。それから年々、挽回し、今では店の切り盛りを任されている。3年前には敬子さんを妻に迎え、看護師を辞めて店のやりくりに専念してきた。
「私たちは、若い二人をサポートするだけですよ」と福次さんと康子さんは、若い夫婦を見て目を細める。
この店は2代続けて末っ子によって引き継がれようとしている。長女は結婚して海外に暮らし、長男は空の上から見守っている。

開業の秘話

「うちの自慢は刺身です。できるだけいろいろ並べて、選ぶ楽しさをつくっています。毎日来てくださるお客さんもいらっしゃるから、飽きないように」。健二さんは先代から引き継いだ常連客を大切にしている。そして、初めての客にも、今一番の旬を薦める。業務用ではなく、客のほぼ全員が個人客というのにも驚かさせる。
大型店同士が激しく競合するこの時代にあって、個人経営の鮮魚店が生き延びることはとてもむつかしい。
康子さんはこの店が生き延びてきた理由を、こんな話で説明してくれた。
「夫は母がこの店を始めたって言っていましたが、実はその前に夫のお兄さんが始めてたんです。でも、ほんのちょっとで閉店しました。そうしたら、近所の人が、まな板と包丁を持って来て、『頼むから店を続けて欲しい』って母に頼んだそうです」。
店は人に必要とされるから続く。
「世間さまに必要と思ってもらえたんかのぉ」としみじみと福次さん。この店はこれからも永く続くだろう。心に秘めた夢が、若い健二さんにはある。そして、コツコツの精神をお嫁さんがしっかり継いでいるから。

案内マップ
岩国市由宇町中央1-8-33
営業/8:00~18:00
休/月曜
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